2012年4月9日月曜日

もとしーさいど

ネタが乏しいので~
ちょっと脱線~(^▽^;)

昨日花見に行った神社ですが~
境内にこんなモノがあります↓

でっかい岩
形から船石と呼ばれてます

他に亀の甲羅に似た“亀石”と・・・
上に乗ると祟られて鼻血が出るという“鼻血石”てのも有るんですけどね( ̄;; ̄)

ココって遺跡らしいんですよ~
“支石墓”とか古墳の石室の残骸とか・・・

まぁそんなに珍しいモンじゃ無いかとは思うんですけど~
『え~っ?!』って思うんじゃないか?って事がありまして・・・(^_^)

この場所はだいたい赤い丸のトコなんですけどね
佐賀平野と筑後平野・・・合わせて筑紫平野だす

ちょうど・・・
背振山地と平野部の境界辺りに位置してます(・ω・)/
海(有明海)から25kmぐらいは離れているでしょうか・・・
お山の麓って辺りですよねぇ

・・・で
何が『え~っ?!』なのか・・・(-ω-)

地図に描いてる青い線
かなりテキトーなんですけどぉ~
2000年ぐらい前はソコが海岸線なんですぅwwww

んでね
再び神社の有るトコロ

写真がこんなのしか無くて非常に判りづらいですが・・・
右端の方・・・田んぼが写ってますけど
低いでしょ?3~4mぐらい差が有ったりする

つまり~
2000年ぐらい前までは田んぼの有る低いトコは海で
ココは背後の山地から半島状に延びた
岬っぽいトコだったんじゃないのかな?と( ̄_ ̄)

もっとも海といっても
青くてきれいな砂浜って訳じゃなく
干潟で泥の海なんですけどね~

筑紫平野は沖積地っていうんですかね?
河川によって運ばれた土砂の堆積によって形成された土地です
ですから上の地図で青い線を右上に張り出させて描いてるのも
ソコが海だったというより
筑後川に沿って広がる低湿地だったんじゃないかなと
勝手に想像したものです
佐賀県東部は丘陵地が多くて
その間に干潟や大潮の時等しか海水に浸らない低湿地が
入り込むような地形だったんじゃないかと思います

その丘陵部に集落が存在・・・
吉野ヶ里遺跡なんか正しくそうですし(丘の上にある)
周辺にある同様の丘陵には遺跡が多く
発見されても調査されず開墾や宅地造成などで失われた場所も
数多いみたいですよ~
(地元の人からは良く話を聞くんだよね~銅鏡とか土器とか出てたって)

そんな土地ですから~
現在も沖積作用は続いていて陸地になる部分は広がり続けてる筈
(実際は河川改修や護岸工事によって速度は低下してるでしょうけど)
江戸時代が始まる頃の海岸線は
今の佐賀市の南側辺り・・・国道264号線辺りかな?
それ以降は干拓事業が始まり
明治から昭和の中頃には大規模な干拓によって
広大な平野が出現するに至ります。

今の海岸線の位置を見れば・・・
ハッキリ言って佐賀県民(佐賀平野部の)が
隣県の『諫早干拓』をとやかく言うのは
如何な物かと思うんですがねぇ?自分達の住んでる土地は何だ?と。
「宝の海」とか「美しい自然を守れ」とか言ってるトコは
400年足らずで埋め立てて陸地にしちゃった後に出来た干潟ですよっと(-。-)
自然というなら今でも続く沖積作用によって
干拓地の外側にあらたな干潟が形成され続けてるのです

ま、怪しげな『市民団体』とかがメンドクサイんで
そんな話はさて置いて~w


縄文期の狩猟生活だと
山はもちろん低湿地には渡り鳥とか多いし、貝や甲殻類
ハゼなんか魚も多かったろうから住むには良い土地だったでしょねぇ
川も有って・・・山際の扇状地には湧き水もあったろうしさ~
弥生時代になっても
日当たりが良くて水はけが良いから・・・それは今も同じ
だから遺跡の上がどんどん造成される訳です。

まぁちゅーことで~
花見に行った神社にも
縄文とか弥生の頃集落があって
目の前に広大な干潟が広がってて・・・

春には花見でもしてたかもね(^-^)

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